猫とボールと肯定的諦観

現代版有限的徒然草

連れ連れなるままに

人間誰しも、とまでは行かないがある種の人間の多くは人生哲学を持っている。美学と言い替えても良い。一見価値の無いものから、周囲から称賛をうけるものまで多く存在する。

現存する哲学は大蛇もびっくりなほど多岐に渡り、もはや鳥取の砂粒以上の数であるが、一つだけ共通点がある。

それは金にならないことだ

科学がルールを解明し、ルールが我々を規定、束縛する現代において哲学が活躍する隙は精神衛生の片隅にしかない。純度100の偏見を言わせてもらうと利益を生み出すことは稀だと、むしろ金がかかることがあると主張したい。

だがしかし、美学のない人生などユーカリを食わないコアラのようなものだ。笹を食わないパンダだ。

なんか違う、別にいいし個人の自由だけどそんな人生はなんか違う気がするということだ。

つまり、小難しく書こうとし詰まらん喩え話をしてまで言いたかったことは人生哲学に金をかけるのは馬鹿馬鹿しいが、馬鹿にもなれないやつにはなりたくない。そんな貧乏人が嘆きを垂れ流すブログだという紹介をしたかったのである

草々