猫とボールと肯定的諦観

現代版有限的徒然草

蝉丸

蝉丸をご存知だろうか?
蝉丸と言うのは昔の歌人であり、百人一首にも選出されている坊主の方だ。
詳しい情報は親友たるGoogle君に聞いてもらうとして、今回はこの蝉丸という人物の個人的な印象変化の経過を見ていこうと思う。1,000年以上(所謂ジラーチ的スパン)なのに勝手に貧乏人に評価される蝉丸は不憫だと思う。

幼少期:百人一首を用いた坊主めくりという坊主を避ける遊びで坊主に見えない坊主の存在蝉丸を知る。ぬか喜びの権化であり、人となりを全く知らずにアンチ蝉丸に

青年期:前半では百人一首で唯一暗記した歌人ということで蝉丸と和解。古典に触れる際の相棒となった、流石に嘘
後半では百人一首に触れる機会がなく、蝉丸忘却の彼方。寂しそうな背中は忘れられない、流石に嘘

中年期:前半にて蝉丸みたいな同期と反りが合わない。風評被害を被った蝉丸の印象はマイナスへ
後半は教養の誤魔化しに使ったり懐かしの話題に上がるなど偽物の負債を本人が挽回。獅子奮迅の活躍で蝉丸フィーバーを起こす、流石に嘘

更年期:無駄にイライラする時期に彗星の如く現れた蝉丸。ちはやふるの影響で百人一首を眺め返しかつての思い出や歌の情景などに耽るをかしな一時を過ごし、心に多少のゆとりを持たせてくれた。鰻登りの蝉丸をシューティング・スター・蝉丸と名付ける、流石に嘘。加えて中年期なんてまだなので記事の後半全部嘘。

現状:蝉丸は貧乏人のせいで嘘まみれ。
蝉丸さんは半端ない方です。筆者が悪い

私は一体何が書きたかったのだろうか。

草々

小使い稼ぎ

一介の有機物たる私が意味のない書き垂らしをながしているのは、一重に経済状況である。雀の涙をのんででも喉を潤したいと望むほど渇いた懐なのである。

然しながら、単に貧乏自虐をしても退屈を越えることはない。上述の条件より情緒あふれる丈夫な常人の冗談をおひとつ

先日の宵い
出張終わりにてタクシーを拾い自宅に帰った直後のこと。扉を開けた途端に立ちくらみが私を襲った。幸い一瞬で収まったのだが、どうにも体が気持ち悪い。医者にかかろうにも勿論しまっているし、都合良く薬があるはずもない。仕方がないので、水だけ飲んでさっさと寝ることにした。翌朝何事もなくすっきりとした目覚めであったのでそのまま会社に出勤した。何事もなくて何よりだったな。


一見なんの変哲もない文だが、捻れ者の私が書いた物語であるのでちょっとした小もないからくりが存在する。推理小説の原則に全く乗っ取らない下劣な文章であり、我が誇るべき灰色でない脳細胞の煤けた空想の中にしかヒントがないという、いわばクソゲーなのである。答えの予測が付く人がいたら是非教えてほしいくらいだ。

連れ連れなるままに

人間誰しも、とまでは行かないがある種の人間の多くは人生哲学を持っている。美学と言い替えても良い。一見価値の無いものから、周囲から称賛をうけるものまで多く存在する。

現存する哲学は大蛇もびっくりなほど多岐に渡り、もはや鳥取の砂粒以上の数であるが、一つだけ共通点がある。

それは金にならないことだ

科学がルールを解明し、ルールが我々を規定、束縛する現代において哲学が活躍する隙は精神衛生の片隅にしかない。純度100の偏見を言わせてもらうと利益を生み出すことは稀だと、むしろ金がかかることがあると主張したい。

だがしかし、美学のない人生などユーカリを食わないコアラのようなものだ。笹を食わないパンダだ。

なんか違う、別にいいし個人の自由だけどそんな人生はなんか違う気がするということだ。

つまり、小難しく書こうとし詰まらん喩え話をしてまで言いたかったことは人生哲学に金をかけるのは馬鹿馬鹿しいが、馬鹿にもなれないやつにはなりたくない。そんな貧乏人が嘆きを垂れ流すブログだという紹介をしたかったのである

草々